こんにちは、ニンジャです!
今回は、国語で「文学」は不要!というテーマで、なぜ国語の授業で「論理」を教えるべきなのか?ということについて書いていきます。
みなさん、2023年度から新しい指導要領が始まって、高校生の国語の授業が「論理国語」と「文学国語」に分かれるという話をご存じでしょうか?
ちなみに、「論理国語」というのは論理的な文章のみが対象で、主に評論文や学術論文、法令文などを扱う授業。「文学国語」は文学的な文章が対象で、主に小説や詩などを扱う授業になるらしいです。
「論理」と「文学」が分かれるとなって、一部では「文学が軽んじられる!」「文学でも読解力は身につく!」といった反対意見も出てきています。
そこで今回は、この「国語を論理と文学に分けるべきか論争」に関して、ニンジャなりに考えた意見を書きたいと思っています!
国語の授業は、論理と文学に分けるべきなのでしょうか…?
国語の授業に「文学」は不要!
このブログのタイトルの通り、僕は国語の授業は「論理」と「文学」に分けるべきだと思っています。
もっと言うと、国語の授業としては「論理」だけでいいと思っています。
あくまで、”国語の授業としては”ですが。
では、なぜ国語の授業に「文学」は不要なのか?
そもそも、「文学」とは芸術作品だからです。
つまり、主教科である国語で取り扱うべき内容ではないと思うからです。
「読書」には2種類あると書いた記事でも述べているのですが、「論理的な評論文を読む」のと「文学的な小説を読む」という行為は、全く似て非なるものです。
詳しくは上の記事に譲りますが、あくまで「文学」を読むという行為は芸術作品を鑑賞する行為。
公教育の主教科で教える内容では、ありません。
では、「文学」を学ぶ機会はなくなるのか?と聞かれたらそうではありません。
こちらは、次の次の章「じゃあ、どうすればいいのか?」で詳しく書いています!
「文学」を国語で教える必要は無いと書いてきましたが、ではなぜ「論理」を「文学」より重点的に教えるべきなのでしょうか?
なぜ「論理」を教えるべきなのか?
なぜ国語の授業で「論理」を重点的に教えるべきかというと、日常的に読む必要のあるレベルの文章を多くの人が読めていないからです。
このことは、『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』というベストセラーにもなった本で、多くの人に知られるようになったと思います。
この本では、全国の学生(小6~高2)に実施した読解力を測るテストの結果が書かれています。
その結果、多くの学生たちが教科書に書かれた文章を理解するのも、ままならない読解力だということが明らかになりました。
また、読解力と大学の偏差値との間でかなり強い相関があることも明らかにされていて、高校時点で読解力がある人=教科書を読める=自力で勉強していい大学にいけるという、読解力の有無で行ける大学が決まってしまっている可能性も指摘されています。
多くの学生が教科書を正確に読めないレベルの読解力しか身についていない、というのは大大大問題だと感じています。
教科書レベルの簡単な文章を読んで理解できないということは、もちろん教科書を理解できないだけでなく、問題集の解説も試験の問題文も理解できないでしょう。
よく問題文でなにを聞かれているか分からないと質問する友達がいましたが、まさに読解力が無く問題文を理解できていない例です。
つまり、読解力が身についていないということは、他のすべての授業の内容が身につかないということです。
さらにいうと、教科書レベルの文章を読む機会は大人になっても訪れます。
日常的に目にするメールやビジネス文書、webサイトの文章などを理解できないと、「コミュニケーションが上手くいかず、仕事で成果が上がらない」「生きていくうえで必要な(お金や健康などに関する)知識を身に着ける機会を失う」など重大なリスクに繋がります。
このように、教科書レベルの読解力がないというのは、勉強が出来なくなるだけではなく、生きていくうえで様々な苦労が訪れるということなのです!
このような身につけないと、日常生活で不利に働くレベルのスキルを身に着けさせるのが、公教育の果たす役割じゃないの?と思うので、僕は国語ではまず「論理」を身に着けさせるべきだと思っているのです。
では、「文学」をないがしろにしてもいいのか?というと、そうではないと思っています。
じゃあ、どうすればいいのか?
国語の授業は「論理」だけ
では、どうするべきかというと、まず国語の授業は「論理」だけにすべきです。
国語の授業では、徹底的に評論文やwebサイトの文章、ビジネス書類など日常的に読む必要のある文章を読みこなす実力を身に着けさせます。
もちろん、小説は一切使いません。
評論文に重きを置くことで、様々な論客の意見に触れる機会も増えて、意識や考え方がアップグレードすることに繋がるのも大きな利点だと思います。
「文学」は美術や音楽と同じ副教科で
国語の授業で「文学」を扱わないなら、もう高校生が授業で「文学」に触れる機会は無いのかというとそんなことはありません。
「文学」は、芸術の一種。
絵画や音楽と同列の存在です。
小説や詩など、言葉を用いた芸術作品はどのようなものがあるか、どのように楽しめばいいか、音楽や絵画と比較してどんなところが魅力かなどなど、あくまで芸術鑑賞という観点から楽しみ方を伝えてあげればいいと思います。
そして、そういった芸術の楽しみ方を教えるのは、副教科の役割。
「美術」や「音楽」の授業と同じように、「文学」という授業を作ればいいのです。
そもそも、「日常の簡単な文章が読めない」って言われてるんだから、文学の文章を読んで理解できるわけない!
まずは、日常的にある文章を、正確に理解する力を身に着ける。
その力を当たり前のように身に着けた人だけが、次のステップとして言葉の芸術=文学を楽しむことができるのだと思います。
さいごに
今回は、国語で「文学」は不要!というテーマで、なぜ国語の授業で「論理」を教えるべきなのか?ということについて書いてきました。
本当に多くの人が、小説と論説文、文学と論理を同じものとしてごっちゃに考えてしまっているんだな〜と思います。
新聞などでは「論理」と「文学」を分けることに、結構批判的な意見も寄せられているので、興味がある方はぜひ調べてみてください!
参考資料
「高校の国語 文学と論理は分けられない」
読売新聞 2022/01/10
「「文学」と「論理」は分けられるか 教科書から見た高校国語教育」
Yahoo!ニュース 2022/5/22
「論理と文学は「切り分けられない」 国語改革に恣意的との疑念」(有料記事)
毎日新聞 2022/3/29
この記事で紹介した本
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